最後に更新してから、色々なことがありました。
11月3日が、父の誕生日で87歳になったことを書きましたが、
12月20日に、その父が、天国に召されました。
今、思い出すのは、小学生の頃、母が病気になった時に父が作ってくれたお弁当。
確か、なにか五目ご飯に卵焼きなどなど、、、だったように思うのですが、
子供たちの好物だ・け・を詰めてくれて、大好評だったこと。
くり日記という、父が私が生まれる前からのことを書いてくれた日記のこと。
冗談を上手に交えながらの楽しい、分りやすかった父の眼科学の授業のこと。
そして、母の若かりし頃の写真をずっと財布の中に入れていた父の想い・・・
葬儀は、偉大なる方に導かれるように、キリスト教であげることが出来ました。
現在通っている教会の牧師先生が快く引き受けてくださり、温かい式になりました。
前夜礼拝(いわゆる通夜にあたります)が、クリスマスイブ。
みんなで、神様からのメッセージを聞き、
讃美歌(いつくしみ深き、主よみもとに、神ともいまし)を歌い、
白とピンクの綺麗なカーネーションで献花していただき、
そのあとは、来てくださった方たちと、和やかに一緒にお食事をしながら、
お話しするひと時を持つことが出来ました。
葬礼拝がクリスマス当日。
少しプログラムは変わりましたが、同じように神様からのメッセージ、
賛美歌、献花、クリスチャンのお友達も来てくださいました。
子供の頃、おじいちゃんのお葬式で、出棺のまえに、みんなが釘を打つ、ということがあって、
ずっと、辛い思い出となっていたので、私は、それが、とっても嫌でした。
でも、キリスト教の式では、それがなく、本当に、心から、ほっとしました。
だって、父はこの世からは去りましたが、また、天国での再会が約束されていますもの、
釘をうってまで、お別れをする必要はないのですものね・・・
そして、アメリカから、主人も来てくれて、胸があつくなりました。
私はずっと実家で過ごしていましたから、彼と二人で過ごしたのは、
アメリカへ帰るという当日の、数時間でしたが、
一緒にお昼ご飯と夜ご飯を食べて、話をして。。。
ごく、普通のことなのに、その事が、とっても嬉しかったです。
主人の好物のお赤飯を炊いてしまってから、食べる時になって、二人で、
あ、お葬式が終わったばかりだったのにね、、、と思わず笑ってしまったり。
(キリスト教でのお別れができたので、私には永遠の別れ、と言う気持ちがないせいか。。。)
本当に、幸せとか、大切なものって、
自分の気持ちしだい、ごく普通のことの中にも、あることを、
言葉では知っていても、初めて実感したひと時でもありました。
日本に来る前、来た当初も、私は、何がなんだか、ちっともわからなくって、
大きな不安の中に居ました。
わからないことが、辛かったし、何で分らないんだろうって、自問自答の日々でした。
でも、今、思うのです。
自分のことを知るためには、まずすべてをありのままに受け入れること、
そこから始まる、と思っていたのですが、
その前に、というか、その中に、
自分は何も分っていない、ということを、先ずは分る、認識する、
と言うことも、実はとっても大切なプロセスとして、あったのだなあ、ということ。
そのように考えてゆくと、今まで、複雑に絡まっていたかのようだったパズルが、
するっと解けたようにさえ、思える、見えてきたのです。
やっと、少しだけ、自分の心を素直に開放することができたのかなあ~
例えば・・・
何でこんなこと言われなければならないの、、と思っていたことが、
相手が一体どんな気持ちで、伝えようとしてくれていたのか、ということに想いが至り、
その想いが見えていなかった自分に気がつく、
そのことによって、相手の気持ちが別の形となって、見えてくる、というようなことかな?
沢山の方たちの善意、温かさ、神様の御心、沢山の信仰の友たちの祈り・・・
に支えられた2013年でした。
2014年は、その沢山の恵みを、しっかりと身につけて、動く!
そして、本当に自分は何をしたいのか、どうしたら、それが出来るのか、
それが出来るように、いつか、いつの間にかなれたら、、、、
そしたら、また、アメリカの家族の許に帰る日も来るのだろうか、
と、思っています。