さて、5月18日の聖日礼拝は、マタイによる福音書、20章1~16節の葡萄園のたとえ話からのお説教でした。
講師は、お招きした、関田寛雄牧師です。
たとえ話のあらすじは、こんな感じです。
ある家の主人が、忙しい葡萄の借り入れ時に、労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけてゆきました。
一日1デナリ(当事の最低賃金だそうです。)の約束をして、労働者を葡萄園に送りました。
まだ、人手が足りなかったので、九時ごろ、十二時ごろ、三時ごろにも出かけてゆき、同じように、労働者を雇いました。
五時ごろに行くと、まだ、立っている人々がいたので、彼らも、葡萄園に送りました。
夕方になって、仕事が終わった時、主人は、先ず、最後に送られてきた労働者に賃金を、1デナリ払いました。最初から働いていた者達は、自分たちはもっともらえると思っていると、彼らも、1デナリずつもらっただけでした。彼らが文句を言うと、最初に1デナリの約束をしたこと、最後のものにも同じように払ってあげたいこと、自分のものを自分がしたいようにするのは、当然である、と言いました。
礼拝のメッセージの焦点→最後に雇われた労働者たち。
「なぜ何もしないで、一日中立っていたのか。」と聞いた主人に、
「誰も私たちを雇ってくれませんから。」と答た彼ら。
私は今まで、彼らが、ただ立っていただけで、一日中、何もしなかった、
いわば、怠け者のように思っていました。
ところが、関田先生のお話は、こうでした。
1)一日幾らなりで雇われる、と言うのは、保障されている人生です。
誰にも雇われない、と言うのは、不安なさすらいの人生。
どんな想いで、彼らが、「誰も雇ってくれないのです。」と、言ったのか、
彼らとて、一日中、其処に立っていただけではなく、仕事捜しに一日を費やしていたのであろうが、それでも仕事が見つからなかったというのは、どれだけ、不安であっただろうか、と言うことに、気がつき、その想いを分ることが大切。
2)1デナリ=一日生きてゆく為の最低賃金であるのなら、それは、いのちの証しであること。
だから、たとえ一時間しか働かなかったとしても、いのちの尊厳性には差別はないこと。
3)一日中働いたものと、一時間しか働かなかったものへの賃金が同じである、というのは、
法律上の掟には、反するかもしれない。
けれど、それよりも上の掟=神の国の掟=汝の隣人を愛せよ、という掟に従ったと言うこと。
4)それが、神の国(国境のある空間ではなく、神のありの有る処全て)である。
仮に、どんなに豪華な家に住んでいたとしても、其処に住んでいる者の間に、愛がなければ、単なる HOUSE であって、HOME ではないこと。
5)神の前では、全ての人間は等しい祝福が与えられていることを表すために、
このたとえ話が話されたこと。
このたとえ話は、何度も聞いたことがありましたが、
このように、最後になった者の、それまでの想いに、気持ちをはせたのは、
はじめてのことで、新鮮な驚きがありました。
聖書の深さを思うと同時に、それは聖書の中だけのことではなく、
日常生活においても、自分の発した言動が、相手にどのような想いを与えるのか、
また、誰かが、自分に対して言ってくれた言葉や行動にも、
もしかしたら、自分には思いも至らない、
その人の想いがこめられているのかもしれないこと。
まだまだ、私には、その気持ちが足りないことを、思いました。