口癖のように、「難しいですね」とか、「よく分らないよね。」とか、
ついつい、言ってしまいがちでした〔今もよく口に出してはしまいますが)。
でも、この頃、生きてゆくために必要なものはそれほど多くない、
人生は、思いのほか、シンプルなんだ、
と、感じるようになってきています。
先日の聖書の集まりでは、死、について学びましたが、
どんなにあがいても、どんなに色々なことが発見されても、
人は、誰でも、生まれたら、必ず死ぬ、ことは決まっている、というのは、
とっても不思議です、人の力ではどうすることも出来ません。
そうして、たどり着くところは、やはり、大いなる力がある、ということ。
誰でも、死ぬことは、こわいだろうとおもうのですが、
「神様が決められた時までは死なない。」
ということを信じる時に、心が安らぐのではないでしょうか。
自分が悪いと分っていても、言い訳をして、誤魔化そうとしてしまうこと、
相手のことを思っているといいながら、実は、過度の期待を心の中で求めてしまっていること、
神様から与えられている心身を大切にしないこと、
自分の想いだけを募らせてしまうこと、
まだまだ、数え上げれば、私たちが日々おかしてしまう罪は、
次から次へと、並べられそうです。
キリストの十字架の救い以外に救いはない、というキリスト教の基本理念も、
何となく、よく分っていませんでした。、
今も、分っているのかどうか疑問の余地はありますが、
ただ、今、思うのは、
自分の罪はその十字架によって赦されていること、
ですから、その十字架を通してしか、本当には開放されないこと、
それを、ある人は、
「そうやって宗教は、ほかのものと差別するから嫌だ。」
と、言うかもしれません。
でも、そうではないんだ、って。
十字架にかかって全ての人の罪を一身に担って死ぬと言うことは、
それだけ、厳しく、辛く、代わりなどきくものではないこと、
決して差別などと言う言葉で置き換えることの出来ないものであること。
「厳しいね。」
と、言う人もいるかもしれません、でも。
厳しいとかではなく、それだけ、真剣勝負であるということ、
秩序の方である神が、それだけ、私たち一人ひとりに対して、
真剣に向き合ってくださったと言うこと、なのではないかしら?
勿論、神は愛の方であり、信じる者全てを赦して包み込んでくださるのですが、
十字架とその救いにおいては、決して妥協なさらない方だと思うのです。
神様を信じるときに、そのことだけで、人は救われ、罪赦されるのですが、
でも、現実に生きているこの世の中では、許してもらえないこともありますよね。
自分のせいだったり、自分には身に覚えのないことであるかもしれません。
でも、その人たちが自分に対して、怒りをもち、赦してもらえない時、
どうしたらいいのかなあ??というのが、今の私の神様への質問。
でも、優しく厳しい神様を信じるときに、
その方を信じて委ねるときに、
人生は、実はそんなに複雑じゃあない、
と、思えます。
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